Chapter.1 日本メイクのルーツ、“紅”って何?[@cosme NIPPON PROJECT]

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Chapter.1 日本メイクのルーツ、“紅”って何?[@cosme NIPPON PROJECT]
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人気のプチプラコスメ、“キスミー”や“ヒロインメイク”を販売する伊勢半、実は江戸時代から続く老舗なのをご存じでしょうか?日本の伝統的な化粧品“紅”を今も作り続けている、唯一のメーカーでもあります。Japanese Beauty第3弾は、伊勢半の歴史を通して“紅と日本の口紅史”そして“セルフコスメ市場”に迫りたいと思います。

日本の伝統化粧、伊勢半の「小町紅」

磁器に塗られた玉虫色の紅に、水に濡らした筆をスッとひとさし――。玉虫色が一瞬で赤に変わる、その不思議な光景には、思わず目を奪われてしまいます。このおちょこに刷いた(はいた=塗った)紅こそ、日本のメイクアップ製品のルーツといえる存在。そして写真の玉虫色に輝く美しい光沢は、伊勢半だけが受け継ぐ秘伝の技なのです。

「“紅”の歴史をたどると、3世紀中頃までさかのぼります。大陸から日本にもたらされた紅は、平安時代になると貴族たちの間に広がっていきました」(伊勢半本店 本紅事業部 広報担当・阿部恵美子さん)

以降、紅の製造は主に京都や大阪が中心でしたが、江戸時代になると“粋な江戸の紅”が登場します。その担い手のひとつが、紅屋“伊勢半”でした。

(「当世美人合踊師匠」 香蝶楼国貞画 国立国会図書館)

“紅”というとまず口紅が思い浮かびますが、実は目尻に色をさすアイラインや、頬に血色を添えるチークとしても使える、今でいう“マルチカラーアイテム”でした(爪を染めたり模様を描く、ネイル的な使い方もされたそう)。

「文化文政期(1804年〜1829年)になると、歌舞伎役者や高位の遊女の間で“笹紅(ささべに)化粧”が流行します。玉虫色になるほど純度の高い紅を下唇に何度も塗り重ね、笹色に発色させるメイク法でした」(阿部さん)

(「今様美人拾二景 てごわそう」渓斎英泉画 伊勢半本店 紅ミュージアム ©Ryoichi Toyama)

玉虫色の紅は大変高価で、金一両(今の貨幣価値で6〜7万円くらい)することも。
「当時日常的に化粧をするのは、大名の奥方や吉原の太夫など、ごく限られた身分の女性たちでした。しかし文化文政期に町人文化が花開くと、庶民の間にも紅をつける習慣が広がっていきます」(阿部さん)。紅屋は看板商品である玉虫色の“小町紅”のかたわらで、素焼きの簡素な器に刷いた庶民向けの紅(今でいうプチプラコスメ)を取り扱っていたそうです。

(伊勢半本店 本紅事業部 広報担当 阿部恵美子さん)

伊勢半が創業したのは文政8年(1825年)のこと。初代澤田半右衛門が、日本橋小舟町に店を構えたのが始まりです。当時の日本橋は商業の中心地で、大店が軒を連ねる活気のある土地でした。「それまで江戸の紅屋は、京都産の紅の小売りが中心でした。初代半右衛門は独自の工夫を重ね、自身で見事な玉虫色の紅を作り出します。こうして発売した小町紅は、たちまち江戸の街で評判となったといわれています」(阿部さん)。

(明治期の伊勢半の店構え 「東京商工博覧絵」 国立国会図書館)

2代目の澤田定七は、紅作りにたぐいまれな才能を持つ職人で、玉虫色をいっそう洗練された質感へと進化させます。3代目の澤田半右衛門は、化粧紅以外に食紅や絵の具用の紅、歯磨き用の紅などに業務を拡大。伊勢半の事業は成長を続け、明治期に皇室御用紅商の栄誉にあずかりました。こののち関東大震災、太平洋戦争という激動の時代を経て、伊勢半も近代化粧品への道を歩むことになります。

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